虎ノ門実業会館
2015/02/13
今日は13日の金曜日。
浄土真宗の身には縁起の良し悪しは全く関係なく、4月のお披露目会場の下見と打ち合わせに池袋東武百貨店までいきました。タイトルは、打ち合わせの後に地下鉄有楽町線の有楽町駅で途中下車、日比谷公園から虎ノ門まで歩いたのです。
まず、朝のルーティンの画像から。ホテルニューオオタニ幕張からは、中国からのご一行様が大挙してディズニーランド・ツアーに出発です。
午前11時半、池袋東武の担当者さんに業務用通路だとか商品の保管場所、搬入する際のチェックの方法等をレクチャーしてもらいました。一連の流れをインデックスで記録します。
ありがとうございました。我々は、作品を展示する什器備品やディスプレイ台の下見です。
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帰路は先を急ぐSさんと別れて、懐かしの虎ノ門を訪ねるため有楽町駅で途中下車です。
地下鉄日比谷線の有楽町駅の三田線方向、A10出口を出ると、日比谷公園の角に出ます。その昔、伊達正宗の上屋敷が有ったり、大昔の公園事務所が資料館になっていたり見どころが沢山あります。
レストラン松本楼もそのひとつ。
松本楼の数奇な歴史を紹介すると、1903年オープン。1923年関東大震災で焼失。1945年海軍省の将校宿舎。1951年GHQの宿舎に。
次のエポックメイキングの出来事は、1971年の学生運動の際、火炎瓶の直撃を受けて焼失。その後、全国からのラブコールを受けて3度目の再建、現在に至ります。
再建後、感謝の意味を込めて9/25に限り、先着1500名に10でカレーライスをふるまっている。
次は、懐かしの日比谷公会堂。演奏会を聴きに行ったり、第九を歌ったりした会場です。
昔はなかった1階のカフェには、回顧録・公演会のポスターなどが展示してありました。
昭和5年の山田耕作演奏会のポスターあり、昭和18年3月16日には、午後一番で東条英機の演説が、夕方には、鬼畜米英の歌を駆逐する演奏会が開かれていました。ちなみに、昭和18年は私が生まれた年でもあります。
日比谷公園には、東西南北に出入り口があります。西の方向に 鶴の噴水公園と野外音楽堂があります。いずれも、かつてのお昼休みの散歩コースでした。
その日比谷野音では建築業界の”賃上げ 勝ち取るぞ~”大会が終わったところらしくて、これからデモ行進です。その反対側、野音の出口を望む東京中日ビルに、平成7年の1月から本社事務所が移転したのです。
その移転した年の1月、阪神・淡路大震災が・・・。その1週間目に役目がら、神戸市葺合区にあった住友ゴム工業所の工場に慰問に行ったものです。また、その年の3月、例の地下鉄サリン事件が直下の霞が関駅構内で起きました。
さいわい、通勤時間帯が30分遅かったので日比谷線の八丁堀駅から歩いて来たものです。
現在は、別な意味でも物騒な「原子力発電所」の再稼働阻止運動が、おひざ元の経済産業省の敷地内にテント小屋を張って気勢を上げていました。
次の画像は、私が社会人となった時(昭和41年)に本社事務所があった建物の探訪です。場所は虎ノ門の交差点から新橋方向へ30mくらいのところ。虎ノ門実業会館3Fです。
もう、築70年以上でしょう。当時は気にもしなかったけど、今では螺旋階段がレトロですね。
この螺旋階段をB2まで下りた所に雀荘^^/と、地下鉄虎ノ門駅に通ずる出口があって、大変便利でした。もちろん、途中には居酒屋もあったりして、、、^^///。
外堀通りを新橋駅まで歩きます。その途中の西新橋交差点の下に、内幸町の地下鉄の駅が、
問題なのはそこの地名は新橋1丁目、でもキムラヤのうたい文句には、”田村町の・・・”とあります。いったい、どうなっているんだ~~??。
昔懐かしい、虎ノ門界隈の探訪記でした。