母の生まれ故郷を訪ねて(その①)
2024/07/02
母の生まれ故郷は宮崎県東諸県(ヒガシモロカタ)郡である。現在ではその中心地の国富町は個性的な名前から全国区である。また、江戸時代は天領であったと聞く。町の南側には九州でも有数な清流である本庄川が流れていて、その北側には数本の中小河川が本庄川に合流している。そして最終的には大淀川へ注ぎ太平洋に流れ着く。基本的には昔から農業基盤の町であった。
母は明治45年(1912年)その地の仮ヤ原(カリヤバル)の寒村で生まれ平成17年(2005年)
千葉県成田市の病院で亡くなった。享年94歳であった。
母は昭和8年(1933年)に産婆試験に合格してから渡満。以来、3回ほどしか生まれ故郷に帰っていない。というよりか帰れなかったのである。無一文で帰国してからは千葉市の父の実家が生活の中心地となり生活を立て直し、子供たちを育てるのにさぞかし窮したことであろう。
今回の母の生まれ故郷を訪ねての旅は、母の遺品を携えて帰郷するのがひとつ、もうひとつは、
宮崎の名産の飫肥杉の産地を訪ねて知見を増やしたいとの目的があった。
4日間にわたる行状記であるが、多くの従弟姉妹が登場する。ほぼほぼ私的な日記である。
2024/06/29(土)成田空港第3ターミナル発のジェットスター機で一路宮崎空港へ。出迎えに来ているハズの従妹となかなか出会えない。長い間会っていないせいもあるが、お互いに背中合わせになりながら電話を掛けあっている図は、マンがであった。
その晩は従弟姉妹が集まって歓迎会を開いてくれました。従妹のH子が母とそっくり。
翌朝は本家の日高家の墓参りです。近くの小高い丘の上に共同墓地があります。戦前までは土地の風習で土葬だったとのこと。近くの三名川の氾濫のたびに水没していたので、叔父が発起人となり共同墓地を建設したとのこと。普段はのどかな田園風景が広がっています。最初の画像は今回携えてきた母の遺品。このあとカラーコピーをして貰い、仏壇に奉納した次第。
国富町の銀座通りにある母の妹夫婦のお墓にもお線香をあげて、目的のふたつ目が叶いました。
その後、墓参りに参加した面々と団体様で小旅行です。目的地は国富町から北東30Kmの所
の宮崎県立「西都原(さいとばる)考古博物館」とその近くの「うなぎの入船」での会食です。
西都原には実にたくさんの古墳が残っています。西都原古墳群と言います。
またまた取って返して、今度は国富町の西へ4~5Kmの綾町探訪です。綾町は風情のある落ち着いた町。綾の照葉大つり橋は大変有名ですが、今回は私のリクエストで木工製品を探し回ってくれました。まず町はずれの屋久杉の木工製品のお店へ。桁が3桁違う製品がごろごろしていますが参考になりません。そして町の中心地の「綾手作りほんものセンター」に引き返して来たら、たまたまテント販売をしていた木工品やさんを発見。奥様がご主人様に電話をしてくれて、山の木工所(あだち)さんを訪ねました。ご主人の温かいもてなしに感謝感激した次第です。